車の思い出②:日産 スカイライン 2000RS(Skyline RS)

「車の思い出」第2弾は、1980年代に一世を風靡したモデルです。だだし、前回の「日産 サニー・クーペ 1400SGX」と同様に、筆者の兄の所有物でしたので、正確には「私の」車ではありません。しかし、購入時に筆者もいくばくかのお金を払ったこともあり、前車以上に思い出に残る車でした。 

 

【モデル概要】

「スカイライン」は、1957年に発売され、特に1960年代から1980年代にかけて若者を中心に大人気を誇った中型スポーツ車です。元々は今はなき「プリンス自動車」の主力商品でしたが、1966年に同社が日産自動車に吸収合併されてからは、日産の主力商品の1つとなりました。

 

当初は4ドア・セダンだけでしたが、2ドアのハードトップ・タイプも発売され、特に後者が若者の人気を誘いました。そして、後ろを走っている車から一目でスカイラインだとわかるように、モデル・チェンジが行われてもテール・ランプは左右2個ずつの丸型のものを堅持し、モデルの存在をアピールしました(丸型テール・ランプは現行の13代目でも採用されています)。

 

また、日産になってから発売された「GT-R」タイプは、6気筒DOHCという高性能エンジンを搭載していて、国内のレースでは無敵を誇ったことから、絶大な人気を得ました。ただし、当時としてはとても高価であったことや、排気ガス規制が強化されたことなどにより、ごく少数が生産されただけで絶版になってしまいました。

 

スカイラインの販売戦略には、当時だけではなく今でもほとんど例のない方法が採られました。それは、2代目から7代目までの開発責任者であった櫻井眞一郎氏を広告の前面に出してきたことで、氏の存在でメカニズムの優秀さを強調する作戦が採られていました。

 

しかし、1990年代になると車格が大きくなり、価格もかなり上がったので、若者にはなかなか手が届かない存在になりました。購入者の多くは、かつての“若者”であった“”中年のおじさんたち”になりました。

  

2024年現在で13代目の車が販売されていますが、現行モデルはおじさんの中でもかなりのお金持ちでないと買えない高級車になっています。

 

さて、今回紹介するモデルは、1981年に発売された7代目のモデルのものです。コマーシャルに当時大スターであった映画俳優のポール・ニューマン(左のカタログ写真参照)を起用したことから、“ニューマン・スカイライン”の愛称でも呼ばれていたモデルです。筆者と同年代以上の人であれば、彼がコマーシャルの最後に車の窓越しに "Skyline is terrific!" と格好良く言い、ウインクをするシーンを覚えている人も多いでしょう。そして、その中でも異彩を放ったモデルが今回紹介する「2000 RS」でした。

 

「RS」とは、“レーシング・スポーツ”の頭文字を取ったものです。1973年にわずか197台で生産が終了された、「ケン・メリ」こと、C110型の GT-R 以来のスポーツ・モデルということで、大変な注目を集めたモデルです。発売前は、「GT-Rの再来か?」などと騒がれましたが、それは10年以上先のことになりました。

 

 

2000 RS の最大の特徴は、4気筒のDOHC、4バルブ・エンジンを搭載していたことで、GT-R のエンジンにこそかないませんでしたが、当時としては珍しく、レースでも使えることを前提として開発されたエンジンでした。ボンネットを開けると真っ赤に塗装されたエンジンが目に飛び込んできました(左の写真は後に発売されるターボ付のもの。下記参照)。当時の2000ccの車としては最高の150psをたたき出すエンジンでした。ただし、スカイラインはこの時点で6気筒エンジンを搭載することが基本だったので、そこに4気筒エンジンを搭載すると、中が少しスカスカな感じがしました。

  

なお、1983年2月には、当時もう1つのエンジン強化策として人気があったターボが付いた、「2000RS ターボ」が発売され、こちらは驚異の190psを誇りました。また、1984年にマイナー・チェンジされたモデル(通称「鉄仮面」)にはインタークーラー付ターボモデルが設定されました。

 

【購入エピソード】

この車は、前回のサニーと同じく兄の所有物でしたが、サニーのときと異なっていたのは、筆者がすでに運転免許証を持っていたことで、兄がこの車に食指を伸ばそうとしていることを知ってからは、筆者も積極的に関わるようになりました。そして、生産された時点では付いていなかったエアコンとカーステレオの代金を筆者が負担することで、共同購入という形になりました。とはいえ、価格は車体だけで当時としては破格の200万円超えでしたから、筆者の負担は1割程度でした。

 

なお、発売が発表されると同時に地元のディーラー(日産プリンス)で契約したので、そのディーラーの第1号の RS でした。カラーは、この車のイメージ・カラーであった、黒とシルバーのツートーンを選択し、オプションで "4-VALVE DOHC" のサイド・デカールを付けました。つまり、カタログに載っていたモデルとまったく同じ姿にしました。

 

【ドライブ・エピソード】

この車でもあちこちに行きました。自分で代金の一部を払ったという事実もあったので、使えるときは好きなように使わせてもらいました。単独でのドライブはもちろんのこと、大学の友人たちとのドライブ、サークルの合宿など、多くの友人を運ぶときにはいつもその中の1台でした。面白いところでは、塾で教えていた生徒の合格祝いのドライブなどというのもありました。

 

【長所・短所】

まず長所は、何と言ってもそのエンジン・フィーリングでした。アクセルを踏むと、エキゾースト・パイプから「ガオーン、ガオーン」という野太い音が聞こえ、回転が上がるとそれが「ギュイーン」に変わり、ゾクゾクとしたものです。また、その存在感も際立っていました。しばらくの間はどこに行っても注目の的で、駐車しておくと人が集まって、よく中を覗かれていました。また、2ドアのハードトップ・モデル(ドアの窓枠のないタイプ)でしたので、4ドアのセダンに比べるとスタイルがスポーティーで、直線的なラインのすっきりさと相まって、とても格好いいスタイルをしていました。

 

次に短所は、値段に見合わない作りの-特に内装の-安っぽさでした。当時、日産の車の内装はトヨタのそれと比べると1ランク以上下の車格のものだと言われていましたが、スカイラインも同様でした。同じ車格と言われていたトヨタのマークⅡの内装に比べると明らかに貧相で、どちらかと言えば同社のカローラのそれとほぼ同等でした。また、レースにも使えるエンジンは燃費が悪く、長距離をおとなしく走っても、10km/lくらいにしかなりませんでした。ちょうどその頃はガソリン代がものすごく高い(確か160円/l以上)時期で、60リットルのタンクを満タンにすると、1万円札が飛んで行ったものです。当時の学生のアルバイト代では、ガソリン代を払うのが大変でした。

 

【お別れ】

筆者が就職をして、次に紹介する「ホンダ シティ・ターボ」を購入した頃には、兄は少し離れたところで一人暮らしを始めていたので、兄がこの車をいつまで持っていたのかは、実はあまり覚えていません。ただ、1989年に発売された8代目(R32型)で復活した GT-R を、兄はこれまた発売と同時に買ったので、おそらくそれまでは乗り続けていたのではないかと思います。

 

なお、その GT-R にも何度か乗ったことがあり、お伝えしたいことはいっぱいあるのですが、本シリーズのテーマの主旨には合わないので、取り上げないことにしました。 

 

ポール・ニューマンの真似をする筆者

伝統の4灯丸形テールランプ

大学のサークル仲間とドライブ

(一番左が筆者)