自転車の冒険

「冒険」シリーズ(?)、第2弾です。今回は中学校時代に自転車で遠出をしたときの話です。

 

自転車に乗ると、徒歩とは比べ物にならないくらいの遠出ができますね。とは言え、中学生の普段の生活ではせいぜい隣町(市町村)くらいでしょうか。筆者もご多分に漏れず、ほとんど市内から出たことはありませんでした。もっとも、それは筆者の実家がある所沢市が東西約14.5km×南北約7km(形は埼玉県に似ている)とそこそこ広い町であったことや、北部、東部、西部はほとんど何もない場所であったことや(今では当時のことがまったくわからないくらい開発されている)、南部の境はすべて東京都と接していて県境では柳瀬川という一級河川(と言っても小さいが…)が行く手を遮っていたこともあったと思います。

 

そんな私に、中学校2年生の冬にまた冒険の機会がやって来ました。それは同級生数名で自転車で正丸峠まで行こうということになったからでした。正丸峠(しょうまるとうげ)とは、埼玉県飯能市(当時その場所は吾野町)と秩父市の境にある峠で、県南西部の入間郡と県北西部の秩父郡の間の分水嶺ともなっているところです。標高が636メートルある、埼玉県では一番有名な峠です。現在はそこを通る国道299号線が正丸トンネル(延長1,912メートル)で抜けてしまいますが、トンネルがまだなかった当時は峠ライダーたちが寄ってくるような難所でした。

 

筆者の自宅から峠の頂上までは国道をずっと走っていくと片道約50km。往路のほとんどが上りで、最後は急な登り坂です。そんな大変な道のりを、市内から一度も出たことがなかった筆者が果たして行けるかどうか不安だったのですが、話の行きがかり上、断るわけにもいかず、2月のある日曜日にそれが決行されることになりました。

 

真冬の氷点下に近い朝6時に集合場所に行くと、5人で行くはずだったのに、言い出しっぺのヤツを含めた2人は来ず(裏切り者!)、結局は筆者を含めた3人で行くことになりました。真冬の長距離サイクリングというものがどういうものかもわからず、たいした防寒着も持っていなかったので、体育のジャージにセーターを着て野球部のウインドブレーカーをはおるくらいで出かけたところ、寒い、寒い…。スキー用のグラブなども無かったので、毛糸の薄い手袋だけで走っていると、すぐに手がかじかんで感覚が無くなってきました。平坦地を走っている間は、体中が冷え切ってガタガタ震えなら走ったことを覚えています。

 

飯能の市街地を過ぎると、感覚的にもゆるやかな登りになっているのがわかり、ペダルをこぐ足の速度も遅くなってきました。国道沿いの東吾野駅、吾野駅、西吾野駅、正丸駅(いずれも西武池袋線の駅)を過ぎ、いよいよ峠の入口のようなところへ。そこから先はヒーヒー言いながら登ったということしか覚えていません。そして、出発から6時間余り経った午後2時過ぎに峠の茶屋前に着きました。汗をびっしょりかいて、お腹はぺこぺこなのに、母に作ってもらった3つのおにぎりは冷え切っていて美味しくなかったという記憶しかありません。

 

30分くらい休憩したでしょうか。復路はほとんどが下りなのでバンバン飛ばすことができ、3時間ほどで帰宅することができました。ただ、さすがに往復で100㎞近く走るとクタクタで、お風呂に入ると夕食もそこそこに寝てしまいました。

 

しかし、ことはそれでは済みませんでした。翌朝目が覚めて起き上がると、両脚の太ももとふくらはぎがものすごい筋肉痛で歩けません(後にも先にもあれほどひどい筋肉痛になったことはありません)。それでも学校まではなんとか足を引きずりながら行きました。ところが、参ったことにその日は体育の授業がありました。厳しい指導で知られる体育の先生に事情を説明して見学させてもらおうとしたところ、「筋肉痛なんか動かせば治る!」と一蹴されて、無理矢理走らされました。でも、先生の言ったことは本当でした。体育の時間が終わる頃には、筋肉痛はほとんど無くなっていました。今でも同じようなことがあったら、その方法で治るかなあ…。いや、いや。この歳でそれをやったら、きっともっとひどいことになるでしょう(笑)。

 

後に、高校生になってバイクの免許を取ってからは、これまでに何度同じ道のりを楽をして往復したことか。しかし、バイクや車で走る度に、苦しい思いをして自転車で走ったあのときのことを思い出します。人生の中で初めて無茶をした冒険でした。(12/○/2020)

 

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