「名前(名)-苗字(姓)」じゃないの?

今回は少し年齢層が上の人を対象とした話です。

 

現在中学生や高校生であるみなさんにとってはどうかわかりませんが、筆者の世代(50代)以上の人やその少し下の世代(40代、30代)の人にとって、自分の名前を英語表記するときは「名前-苗字」の順に表記するのが当たり前でした。しかもそれは、外国映画のクレジット画面で出演者やスタッフと同じ表記になるので、「なんだか格好いい…」という感触を持っていたものでした。当然、当時の英語の教科書でもその表記が採用されていました。

 

ところが、現在発行されている(そして来年度からの新しい)教科書では、その「当たり前」の感覚を覆す表記がなされています。つまり、すべての教科書で日本人の名前の場合は英語であっても「苗字-名前」の順番で表記されているのです。これは、そうではなかった頃の教科書を使って育った人にとっては、天地がひっくり返る(?)ほどに驚きを与えることかもしれません。

 

<現行(2016-) NEW HORIZON(東京書籍)>

・安藤 咲 → Ando Saki

<次期(2021-) NEW HORIZON(東京書籍)>

・本田海斗 → Honda Kaito

 

では、いつ頃からそうなったのかと言うと、筆者の記憶によれば、数代前の NEW CROWN(三省堂)が最初であったように思います。どうしてそうなったかのはっきりとした理由は不明ですが、漏れ聞こえてくる話では、「日本人のアイデンティティーを大切にする」ということだったようです。つまり、「日本人は自分の名前を堂々と日本語のまま相手に伝えれば良い」という考えです。おそらくそれは、学習指導要領の中で「自国の文化を大切にする」というようなことが謳われていたのを具現化したものでしょう。その後の教科書の改訂で、他の会社も続々とこの考えを取り入れ、今では「苗字-名前」の横並びです。

 

一方、令和元年10月25日に政府より各省庁向けに通達された「公用文等における日本人の姓名のローマ字表記について」では、「各府省庁が作成する公用文等における日本人の姓名のローマ字表記については,差 し支えのない限り「姓―名」の順を用いることとする」とされ、その理由を「グローバル社会の進展に伴い,人類の持つ言語や文化の多様性を人類全体が意識し,生かしていくことがますます重要となっており,このような観点から,日本人の姓名のローマ字表記については,「姓―名」という日本の伝統に即した表記としていくこ とが大切である」とされています。つまり、国から「苗字-名前」の表記がふさわしいという考えが示されたわけで、教科書も各製作会社の考えいかんに関わらず、これに従わなければならなくなりました。

 

これに対して、それを実際に使う私たちはどう考えたらいいのでしょうか。筆者には「確かにその方が感覚的にいい」という場合と、「やはりちょっと違和感があるなあ」という場合があります。

 

前者は、特に歴史上の人物のように名前が「1つの固まり」のように思われている場合ですね。例えば、「徳川家康」はやはり "Tokugawa Ieyasu" であって、けっして "Ieyasu Tokugawa" ではありません。もっとも、外国の人に彼の名前のどこが苗字でどこが名前であるかを教えたくて言う場合は後者の方がいいでしょうが…。でも、やはり前者でないと気持ち悪くありませんか。

 

後者は、日本人の名前を外国の人のそれと同列に示したい場合です。例えば、筆者はよく自分の生徒を撮影したビデオを編集して「卒業記念DVD」というものを作成するのですが、その中で全生徒名や教員名をハリウッド映画のエンディング・ロールのようにクレジットする際は、教科書で扱ったやり方で「苗字-名前」の順でローマ字表記することが通例となっています。しかし、どうもこれがしっくりこないんですね。 やはり本物のハリウッド映画のように見せるには「名前-苗字」の方が格好いいのです。毎回その狭間で格闘し(?)、結局は「苗字-名前」を採用してしまっているのですが…。

 

う~ん…。筆者のように英語は「名前-苗字」で育った人間には、これからもずっとこの両者の間で格闘が続くのでしょう。一方、現在中学生や高校生の人はきっとそんなことはなく、「だって、教科書が"苗字-名前"だったから、全然変じゃないよ」という感覚なのかもしれません。

 

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