10年前のあの日

3月11日は10年前に東日本大震災が起こった日です。あの時のことは鮮明に覚えているので、もう10年も経ったのかという思いがあります。あれからもう10年が経ちました。しかし、実際に被害に遭われた方々にとっては、「もう10年」ではなく「まだ10年」なのかもしれません。あるいは、あの日に時間が止まってしまって時間の流れは感じないという人もいらっしゃるかもしれません。

 

筆者の勤務校(以下「本校」)がある都心も、震源地からかなり遠かったとはいえ、相当の混乱が起きました。すべての電車が止まり、道路は大渋滞して、帰宅困難者があふれました。4車線+広い歩道があるような本校の近くの大きな通りでも、まるで祭りかパレードでもやっているかのような人の流れが起きたと聞いています。本校でも1・2年生400人(3年生200人はディズニーランドにいました)のうちの約100人の生徒が帰れなくなったので、筆者を含めてその日に学校にいた全ての教員が学校に泊まリました。

 

幸いにも電気やガスなどのライフラインが生きていたので、調理室で大量にお湯を沸かし、なんとか買い集めてきたカップラーメンを生徒一人に1つずつ食べさせることができました。ただ、最初の大地震直後から外部との連絡は無料で使えるようになった事務室前の公衆電話1台しかなかったので、全生徒が家庭と連絡が取り終えたのは夜10時過ぎになりました。もちろん、筆者が自分の家族と連絡がとれたのはその後でした。

 

本校には全校生徒600人が入れる古い講堂が体育館とは別にあり、震災の数年前に冷暖房施設を入れることができていたので、学校に残った生徒たち全員をそこに集めてフロアーで雑魚寝をして夜を明かすことになりました。“雑魚寝”と言っても、常に人員確認をする必要があったので、男女別、学年別、クラス別に並んで寝てもらったのは言うまでもありません。体育館から器械体操用の組み立て式マットを持ってくることができたので、フローリング製の床でも快適に(?)寝ることができたのは幸いでした。

 

生徒たちはまるで合宿ができたかのように無邪気に喜んでいた時もありましたが、ひっきりなしに襲ってくる余震で講堂が音を立てて揺れる度に目を覚ましてしまい、恐怖で一睡もできずに朝を迎えた生徒もいたようでした。教員はシフトを組んで交代で、子供を迎えに来たものの帰れなくなってしまった保護者数名とともに寝ずの番をしました。

 

翌朝は学校に備蓄してあった災害時の緊急食糧をみんなで食べました。午前中には電車が少しずつ動き出したので、生徒の帰宅が始まり、お昼頃までには全員が下校しました。ただ、教員は校内施設の状況を確認したり、翌週からの学校をどうすべきかを話し合ったりしなければならなかったので、土曜日で休日であったのにもかかわらず、帰宅できたのは夕方になってしまいました。寝不足と家に帰ることができるという安堵感や先のことに対する不安感からでしょうか。帰りの地下鉄に乗った時に身体の力がふっと抜けてしまったことを今でもよく覚えています。

 

実質的には何も失うことがなかった筆者でさえ疲れ果ててしまいましたので、地震や津波によってお亡くなりになった方々やご家族やご自宅を失った方々がどれほどの思いをされたのかは想像を絶します。

 

…すみません。ここまで来たところで、この後の適切な話の展開が思い浮かびません。中途半端ですが、今回はここで終わります。(3/13/2021)

 

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